昭和44年7月26日 朝の御理解
御理解第37節「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ」
「生きている間は修行中じゃ」。本当に、厳しい感じを受けますけれども、多かれ少なかれ、やはりそれを修行といわなくても、やはり一生が、ほんなら苦労だとういうてもいいでしょうね。人間生きている間はやはり、あの苦労から逃れることは出来ません。様々な苦労がある。
そこんところを、まぁ信心をさせて頂く者は、修行とも頂くわけです。生きている間は修行中。
本当のことを言うたら、生きている間だけではない、実は、なら私はお国替えを頂く、死んでからでもやはり修行はあると思うですね。あ、まぁいってみたことがないから分からんけれども、やはりある。
昔の桂先生のお弟子さんで、大変こんな霊能的なことにしいでておられた先生が、御霊物語というのを、こんな厚い本をその当時書いておられます。今はございませんけれども、その本を私借りて一遍読ませて頂いたことがあるんですけれども、桂先生なんか、もういわゆる御霊様(あ、でも?)ですね。大変なご修行続けておって下さるということが、色々細やかに書いてございましたが、ね、ならそういうところから、思いましてもまた、私が知っておる限りの、まぁ御霊様の世界というか、ね、ようなものを思いましてもやはり修行はあっておるということでございます。
御霊は御霊ながらの働きが出来るために、御霊ながらの修行をやっぱりなさっておられるということです。ですから、いうと生きておる間だけではないわけです。
そこで私共がこの、生きておる間にこの修行中と仰るが、生きておる間にどういう修行させて頂いたらよいかと。ね、初めは、まぁ病気が良くなるために修行をした。お金に難儀をして、経済的な問題。それで修行させて頂いた。または人間関係の(あ、素晴らしさ?)というか、難しさと、いうようなことで、修行をさせられたと。
ね、いうなら、食べるために修行をしたといったようなことにいうても良いでしょうね。食べるために、やはり苦労をしたと。けれどもそういうように、その苦労がね、私はその色々ありますが、その苦労がまたもその修行がですね、一生食べるために修行をしなければならないようなことであっては大変だと思うんです。
ね、一生金銭のことに、はもう本当に難儀をしたというような事であっては駄目になる。人間関係においてもしかり。ね、段々その修行というのが、いわば高度なもの。いうなら、御霊様でもなさっておられるような。ね、神様でも御苦労なさっておられるような。ね、そういう意味においての修行になっていかなければいけない。
まぁいうならば、人が助かることのために修行させてもらう。世界が明るくことのなるために修行させてもらう、といったように私はその修行の内容というのがね、高度な、その広い意味合いにおいての、修行にね、段々なっていかなければならないんだとこう思うのです。
ね、ですから、同じ事が、何時まででも続いたんでは、これはお互いのいわば、思い方の上においても、信心の上においても、まぁ同道周りをしておるということになりますよね。
家庭のごたごたの為に何時も一生修行した、したちゅうような事じゃったら、もうその人の人間的な向上というものは全然そこには感じられません。もう一生金だけには不自由しぬいたというようなことではね、つまらんでしょう。
ね、お金やら物やら金やらには、ふんだんに。健康のこともおかげで、と言われるようにですね、そういうところのおかげを受けて、そしてなお、そうした高度な信心。ね、高度な修行とでも申しますね。
そこんところを私は「生きておる間は修行中じゃ」という風に教えて下さったんだと。また信心しておりゃそうですものね。信心しておりゃ必ずそんな一生(貧乏?)で苦しまんならんとか、一生金で苦しまんならんということになろうはずはないて。ね、ところが世の中には、そういう人が多いのに驚きます。
若い時にはもう、本当にお坊ちゃま育ち。(やちょうよはなよ?)で金なんかの苦労は知らなかった人が、年をとるに従って、いわばお金に不自由をしていくといったような人達がありますが、これなんかもういよいよ、私は考えものだと思うですね。確かにそういう事実はあるんですよ。
子供の時は、ね、親の七光りで立派な生活をしておったものがです、親が亡くなったらもう途端に苦しくなった。ならそこで発憤して、次のよい生活に入っていくための修行ならよいですけれども、それが段々段々、若い時に修行していなかったばっかりに、若い時の苦労としていなかったために、段々段々もう、いわゆるじり貧になっていくというようなね。それではつまらないでしょうが。
世の中には様々な苦労があるんです。それを、苦労といわずに修行とさせて頂くならばです、必ず高度な修行が頂け、高度な信心が進む。勿論おかげの、高度なおかげが受けていかれることを私は確信します。
昨日は、幹部研修会でございましたから、婦人会の方達と一緒に研修をさせて頂きました。この4月に久留米の75年の久留米「串原教会?」ですね。ここの親教会のまた親教会ですが。の記念祭がございました。
その時に、御本部から学院長である「佐藤ひろとし」という、大変偉い先生がお見えられまして、お説教をして下さいました。それが、この一冊の本にまとめられております。あー、あの時にお初穂をお供えなさった方は、ここへきておりますから、どうぞ帰りにおもち帰り頂きたいと思うんですが。
(そのなき?)これを聞かせても頂いておったし、またこれを一通り読ませて頂いて改めて、良いお話をなさっておられるな、素晴らしいことが書いてあるな、という事をですね、感じさせてもらって、その中にとりわけ私は、あの限らせておきましたがね、こういうようなことを、まぁ今日の、まぁそれにちょっと外れるかもしれませんけれども、この中から、まぁ抜粋したところを二、三読んで見ましょう。
ブレーキをかける力を養っておかぬと、大きな事故を引き起こすということ。ところがある。ね、これはまぁ自動車のことでしょう。ブレーキをかける力を養う。私は信心とはですね、そういうもんだと思うんです。ね。
こんな事をしちゃいかん。こんな事をしちゃいかんといいながら、もうブレーキがきかんようになって、ずるずるべったりで悪の道に入っていったり、堕落していったりする人があるんです。ね、それはブレーキをかける力を養って、力を養っていかなかったからですよ。
ね、信心しておってもそうです、はー信心しておって、こんなこっちゃいかん、こんなこっちゃいかんと思うそれが何時の間にか大きな事故を引き起こすもとになるのですから。信心とはただ、お参りをするだけではなくて、教えを頂いて。本当にブレーキをかけさせてもらう、辛抱させてもらう、えれる、私は力を養っていくことだと、ね。
次には、「わしさえ良けりゃわし」というのをこれは、あちらの言葉ですね。私さえという事。自分さえという意味です。
わしさえ良ければ、というものを生まれながらにもっているということ。人間はね。ほっておけば皆そうなるとこういう。生まれながらに人間はね、自分さえ良ければいい。人のことなんかどうでも良い。自分、そのためには人の持っとる茶碗を叩き落してでも、自分がそれを得ようとする。そういういうようなものを内容に人間が生まれた時からもっておるのですから、これはもうほっておいても育つんだということです。
昨日この話しを聞いて久留米の「井上?」さんがいうておられましたですね。この頃PTAの何かの会の時のその、お母さんが堂々とそれをその発表されるちう訳です。もう私はいいませんち、家の子供に人んことなんか構うたんじゃなかって。もうあんた自身が勉強すりゃええ。あんた自身が助かりゃええという事を教えておりますというんです。母親が。
そういうことになってきたら、今度は大きくなってから、あんたそげん教えよったけんちうてから、もう親でん見らんごつなるじゃろうちいうてから、まぁ笑った事ですけどもね。自分さえ助かりゃええ。人のことだん考えなさんなと。自分のことだけ考えときゃ良いというて教えるとこう。大変な教育だと思いますですね。
この中に、現あの教主様が言うておられるのに、とにかくね、自分の前の庭をはわくという事。その自分の前の庭をはわくという事はね、世界の一部をはわいておるんだという気になれということを言うておられます。
ね、自分がここを清めておることは、世界の一部が清まっていきよるんだと。それに、自分ところの前さえよかりゃよかちいうてから、もう隣の方へこうやってはわきやっとる。(それにき?)隣のもんがまたこっちにはわきよる。あっちやり、こっちやりしよる内に喧嘩が起こって争いになるんだと、いう風に言うておられます。
ね、私自身が例えばね、おかげを受けていくということはね。そういうことだと思う。ほんな自分の目の前のことだけなんだけれども、自分の家の前なんだけれどもです、それは世界の一部が清まっていきよる。自分の心の中の光は世界の一部を照らしておるというようなものでなからにゃいかん。
ね、そういう気持ちだったら、とてもごみを他所へはわきやるような事は出来やしませんよね。わしさえよければ、というものを生まれながらにもっている。ほっておけば皆そうなるという。
信心…。信心の稽古とかね、信心の稽古とはそういう向きでない生き方を目指してゆくのであると書いておられる。信心の稽古とはね、そういう向きではない生き方。自分さえよかりゃよかという風に向いとるとを反対の方へ向き直って行く生き方。そういう日々の生き方を目指していくのである。それが信心だというておられる。
この辺を皆さんがよく一つ考えておらなければ、信心しておっても一つも向きを変えんで、ね、ただ自分がおかげさえ頂きゃよかといったようなです、ような事でですね、それは始めは誰でもそうでしょうけれども、自分がおかげを頂いたら、神心となりて、人にも伝えていくといったようなものがです、段々育っていかなければならん。だから、その人のために修行をするといったようなことにもなっていくでしょうね。
向きで、そういう向きでない生き方を目指していくのであるとこう。ね、だからそこに、やはり向きを変えるということにです、修行が必要になる。
だからもう根本的にそこから、一つ向きを変えてこれからの信心修行は段々高度なものになっていかなければならない。そういう意味合いにおいてならば、なるほど一生が修行であろうという風に感じますですね。
次には、三代金光様ですね、前金光様の御時代にあるお道の教師の先生が、お伺いをして。昔お徳を受けられた方達のところでは大変な人が助かりましたと。あぁいうお徳を頂いてです、私もそういう御用に使うて頂きたい。沢山の人が助かるようなおかげを頂きたいが。金光様どういう信心をさせて頂いたら、おかげが受けられましょうかというて、お伺いをした。
それに対して三代金光様のお言葉はですね、「あぁいうお方は信心の苦労が違います」と仰った。「あぁいうお方は信心の苦労が違います」と仰った。いわば信心の修行が違いますという。ね、もう一言で言うておられます。だからあなた方のような信心じゃ、とてもその、もう別者のように言うておられますですね。あの方達はとこう。
あぁいうお方はです、信心の苦労が違います。そこで昨日研修会でです、ならそういう苦労とはどういうようなその、苦労のことでしょうかと。そういう苦労とはなら、どういう苦労をさせて頂いたならよいでしょうかというて、質問された方があったから、私が申しました。
あー信心するには様々あります、けどもそれ前にですね、朝参りを始めなさいち私が申しました。朝参り一つ出来ずしといてから、信心の苦労て、どげな苦労ですかていったって、もうお話になりませんよち。朝参りが難儀なごたる事では、信心の苦労は出来はしませんよ。というて、まぁ申しました事ですが。
まぁ皆さんはこうやって朝参りなさっておられるからです、ね、これから、本当の意味での信心の苦労をなさるならばです、ね、それこそあぁいうお方は、の中に入る事が出来ると私は思います。「あぁいう方は信心の苦労が違います」。
ね、私は昨日、丁度善導寺の久保山さんが参ってまいりまして、今東京に、まぁ田代さんですね、田代さんの息子さんが今大学にいっております。まぁ田代さん、健在の時は、まぁそれこそ金なんかに不自由することが無いくらいにどんどん送っておられたけれども、そんなわけにはいかん。まぁむつやからの仕送りだけでは、まぁやっていけない。
えー、最高、早稲田のなんていうですか一番上の、大学院ですか。を目指しておりますから、もう随分のお金がいるらしいんです。それで今アルバイトを始めておると。田主丸の方から、行かれた方で、えー、あちらで、東京で成功して、まぁ法律家、法律の事務所を開いておられる方があるから、その方に、のところでです、そのアリバイとで新聞配達をしておる。
だから新聞配達なんかよりもです、その人のところでアルバイトを頼んであげるから、そちらの方にいったらどうかというて、あの久保山の「ようこ?」さんが手紙を出しておったけれども、なかなか返事がこないというてお届けがあっておった。ところが昨日、その返事が来ておりますから。「清?」さんちいうですが、清から手紙がまいりましたから、親先生お礼を申し上げて下さいというてから、その手紙を持ってきました。
私はそれを読ませて頂いておって、はーおかげ頂いておる、これなら大丈夫と私は、思うて、あの田代さんの御霊様に早速お礼申させて頂いたんですけれどもね、その例えば、どういう苦労をしておるか。どうい修行をしておるか。一つ、ちょっと読んでみましょうね。
前略。新聞配達にもなれて、元気に毎日を送っています。お便り拝見しました。「柳原?」さんのことは、最高の手紙を読んで、知っていましたが、返事を書く気になれず、今日までのびのびになってしまいました。結論を先に言えば、自分としては現状をいじして、勉強に励むつもりです。
新聞配達という一軒やひな、まぁ社会の最低辺にくらいして、社会を見つめていると、現在の自分に無いものが沢山あるということに気付いてきたのです。それらの事柄を一遍に解決する事は、不可能ですが、何によりましても、何よりも自分が意味を感じるのは、仕事が純情でないということです。
純情でないということは、一般常識的に考えてはあほらしい、そんなように考えられますけれど、それが自分の訓練という点から考えると、最上のもののように思われるのです。
朝三時半ぐらいに、強制的に起こされて、三時間ほど仕事に従事するということだけを考えても、それが早起きの習慣をつくり、一般の人が仕事を始める前に、一仕事終わるということが、からくる時間に対する認識。
仕事に不随する忍耐力など、今まで自分が経験しなかった新しいことばかりです。僕自身むつやという安易だった時代から独立して、人生をおくっていこうとするものにしては、貴重な時期だと思います。
それに体力的に自信が出来てまりました。いくら・・・、いくらこれは、なんと書いてある、たか、何かを出しましても、雨の中に配達を休めないということは、大変辛いけど決してマイナスにはならないと考えています。
以上のような意味で新聞配達。(さく?)を選択したことは過ちではなかったと思います。それを「柳原?」さんのご好意を受け入れて、法律事務所に勤務するということは、何か中途半端な感じをまぬがれません。
確かに、将来法律家を目指そうとする僕にとっては、ご好意に従事することはもっとも妥当な事です。しかし、それはそれとして、自分自身が努力し、解決していかなくてはならないものだと考えております。「柳原?」さんには、ご好意をご配慮感謝しているとお伝え下さい。このついでに、現在の心境を書きます。
この四月に新聞配達をしながら勉強に励むということ。(いきびくろ?)にある朝日新聞の一販売所で働いているのですが、仕事事態は決して頭を必要としない、単純労働の為に一年以上努める気にはなりません。
それに身の回りに自分を理解してくれるような人もいません。完全な独学です。果たしてこの状態、受験勉強をやっていけるか、という僕自身不安を感じています。それに七月まで集金というやっかいな仕事をさせられていますので、勉強の方は計画の三分の一ぐらいの進みようです。
それで六月の初め、決心したのですが、来月の三月の早稲田大学大学院の入試を受験するつもりでいます。それで現在は、それに(しょうじゅん?)を合わせて勉強しています。
自分の年齢や、能力経済力の問題がありますが、現在の僕の心は、人生30にして立つという気がまい、せいか、気構えて生活していますので、その間の五年間を勉強に打ち込んでやろうと思っています。
僕の身辺の人を見まわしても、30にして立っても決して遅いとは思いませんので、年齢的なものはそう気になりません、とまだ続いておりますけれども、まぁこんなところ、ね、見て頂いた、聞いて頂いただけで。はー、本当にその勉強を志しておると。為にはもうその、どんな修行でもさせて頂こうという気構え。
しかも新聞配達を始めてですね、それを一年以上続けようとは思いませんというところに、修行の向上が、を感じるでしょう。ね。いうなら、これなら誰でも出来ることだと。頭を使わんで良い。
けれども、朝の三時半から起こされて、三時間新聞配って歩くということは、それは辛いこと、先に書いておりますが、例え熱があっても起こされるて。例えねっぱつしておっても、やっぱやらんわけにはいかん。雨が降っても、風が吹いても、やはりこれだけはやっていかなきゃならない。いうならば新聞配達ですらそうなんですよ。
人間の幸せ、いわばあの世までも持っていこうという幸せを頂こうとする信心において(おや?)であります。ね、ですから、ならお互いがなら新聞配りの気持ちになっただけでも、私は三時半四時に起きて、朝参りをするというぐらいな事は、そう大したことじゃないとこう思います。
それが本当にその気になって、いわば修行させて頂こうという気になればですよ。だから、そういう修行からです、お互いがです、段々高度な修行に、清さんもここにいっておりますようにね、こういう修行を一年しようとは思わないといっておる。
ね、だからもっとましなというよりも、もっと高度なところ、しかしそこによって今まで知らなかった、その最低(ひん?)から眺めるところの人生というものがです、ね、どんなに尊いものか、今尊いものを身に付けておるか。
ね、そして、そこに、副産物のように健康には自信が持てたといったようなおかげがそこに現れております。
というように、私は今日の、その御理解30節の中からですね、生きていく間は修行中じゃですから、その修行がですね、こういう修行を何時まんでんしよっちゃでけんというもんがなからにゃいかんと思うです。
ね、四年も十年も金に不自由しておるという修行を何時までしよったっちゃでけん。もうこれは今年限りで、来年からは、というぐらいにはっきりですね、線が引けれるくらいな、私は信心修行を皆さんが励んで頂きたい。
ね、それには、やはり同道周りの信心じゃいかんから、そこをもう少しあかぬけのしたおかげ。いうなら、ここに金光様がいうておいでられます。あの方達は信心の苦労が違います、と仰る、その苦労の内容をです、ね、どういう苦労、どういう修行をさせてもらりゃあのような体得が受けられるか。というようなところをですね、求め求めして、信心の修行に打ち込んでいかなければならん。
けれどもその修行は決して同じ修行であってはいけない。もうならない、それでは。ね、次のいわば神様に喜んで頂けれる修行に少しずつ少しずつでも、修行に勢を出していかなきゃならん。
まず第一にです、私は心の中に書きました、ね、ブリーキ、あんブレーキをかける力を養っていくといったよな修行は有り難い事だと思うね。
確かに人間というものはです、もう自分さえ良ければ良いといったようなものが、ほっておいても育つような、それが私共の人間性には、誰でもあるんです。ですから、そこんところの向きを変えていくことが信心だとこう言うておられるように、そこに本当に回れ右をさせて頂いてです、一歩ずつでも二歩ずつでもそういう方向へ向かって、目指して行く信心の稽古をさせてもらわなければならない。
ね、それは自分の家の前をはわかせて頂くというような、清めていくというようなところから、始めさせて頂けとこういうわけなんです。ね、そこには、自分の前ではない、ここは世界の一部だと。というような気持ちで私は自分の前の庭をはわくならばです、それは世界の清まりに繋がっていくことだとこう思うのですよ。
一つそういう意味合いで、今日は信心修行は一生が修行じゃということを聞いて頂きましたが、せっかく一生修行、これはもういやでもおうでもせなきゃならないのですよ。それこそ死ぬるまで、やはり何がなし、自分を気が付く、付かんは別としてその修行はありまし。苦労があります。生きていく、いる以上。
ならそこで、その苦労がです、高度なものに段々進んでいくだけの信心をですね、見極めて一生の修行をいわば、有り難くさせて頂かなければならんとこう思うのです、ね。
どうぞ、その例に、まぁ清君の手紙なんかも読みましたがね、本当に実感溢れておるこの、若い者がこの苦労に取り組んでおることにです、こういうよい条件があるけれども、それをいわばけっております。
ね、法律家になるとですけん、法律家のところで、あん、こう(変えて?)でもおんならば、ほりゃ理解もあるし、あの田主丸の方だそうですから、ね、お金もましに頂けるでしょうけれども、折角始めたこの新聞配達というそのことによってです、とにかく、これをしなければ頂けない尊いものに今触れていきよるから、ね、それはその行為だけは、あなたから、いわゆるお礼を言うてくれ、僕はこれ、この修行をもう一年間は続けるとこう言うております。
そういうような、あの、おー、いわば新聞配達させて頂く者でもです、それだけの修行をしておるということですよね。信心させて頂く者、人間の一番大事なところに気付いて、ね、人間の一番大事なことに気が付いて信心をさせて頂いておる者に、それこそおいて(親?)であります。
どうぞ、しっかり信心が、本当のものに伸びていく、進んでいくおかげを頂かなきゃならんと思うですね。どうぞ。
梶原 佳行